第38章 コード・フリッカー

 ニューデリー、ストラスブール、シルケボリという3隻のサラミス級巡洋艦で構成されているクレイモア隊討伐本艦隊と、先にクレイモア隊と交戦を開始した先発隊との差は、時間的距離にして30分ほどであった。先発隊の本当の役割はクレイモア隊の殲滅そのものではなく、コロニー落とし作戦とクレイモア隊の状況確認に過ぎなかった。無論、急ごしらえの艦隊の指揮を任されたモートン少佐は、クレイモア隊との交戦を先発隊に許可しなかったわけではなく、クレイモア隊が当該宙域を逃走しないように戦線を維持するよう指示を出していた。しかし、モートンは先発隊にクレイモア隊を撃滅できるとは思っておらず、その推察は現実となった。

 戦術コード”フリッカー”発動の指令が発せられてから、ティルヴィングは2隻のサラミス級の方向を向きながら急速に後退を始めていた。現時点でこの戦術コードの意味を知っているのは、ログナーとごく一部のメカニッククルー、そして発案者であるエネスだけであった。
 この命令が下りてから最初に起こした行動は、コロニーに取り付いたレイ機を除くモビルスーツ隊全機の撤収であった。既に先発隊は全ての保有モビルスーツを失っており、それを妨害することはできなかったが、2隻のサラミス級巡洋艦はティルヴィングとの相対距離を縮めなかった。
 続いて帰還したエネスの指揮のもと、メカニックマン達がこれまでにないほどの慌ただしさの中、モビルスーツデッキの多分のスペースを支配していたコンテナの解体にかかっていた。
「ハヤサカ主任のびっくり箱・・・これがフリッカーの要ってわけか。」
 モビルスーツデッキのキャットウォークから作業を取り仕切っていたエネスの横に並んで、ファクターが緊張を隠さずに言った。
「あぁ・・・貴様は中身を知らないのだったな?」
「確かに知らねぇが、これがなければオレ達が生き残れねぇってのは分かるぜ。ところで、オレ達の出番はもうねぇのか?」
 それはファクターの好戦的な気性ゆえでないことは、エネスにも分かった。むしろ、自分が動いていないところで状況が変動していくのが不安なのだ。
「いや、あるな・・・敵の目的が我々の撃退ではなく殲滅にある以上、こちらが退けば打って出てくる。それに対して、オレ達は少なくとも”戦ってみせる”必要がある。モビルスーツによる援護なしで、フリッカーの成功は有り得ないだろう。」
「そうかい・・・それじゃ、そのときを楽しみに待ってるぜ。」
「・・・そうしてくれ。次の出動まで、そう時間はかからないはずだ。今のうちに休んでおくんだな。」
 エネスが言ってから、デッキ内が先程よりもざわめき始めた。コンテナの開封が終わったのだ。
「これは・・・」
 中身を見たメカニックマン達やファクターが驚くのも、無理からぬことだ。なぜならその中身とは、巨大な風船と数百個に及ぶ機雷だったのである。
 この時代の艦艇には、レーダー装置と視覚の両面から敵を欺くため、ダミーと呼ばれる風船が実装されているのが常だ。強化ラバーなどを材質として、形状はコロニーの残骸であったりモビルスーツであったりと実に多様だ。そのダミーの大半は放出された直後になって初めて数十倍から数百倍もの大きさに膨れ上がるのであって、未使用のダミーは人間ひとりが持って歩けるだけの大きさでしかない。しかし、このダミーは違った。モビルスーツサイズにしては大きすぎるのだ。
「貴様が言ったとおり、フリッカーの要だよ。」
 エネスはファクターに、後に一部の専門家から”第一次ネオジオン抗争時においての、もっとも華麗な撤退戦術”とまで評されることになる戦術コード”フリッカー”の全貌を話し始めた。その5分後、艦内に緊急発進を告げる警報が鳴り響き始めて、エネスの表情は決意に硬くなった。

 ちょうどその頃、レイがコロニーの軌道修正用の核パルスエンジンに点火してから、数分が経過していた。点火したと言うからにはコロニー落としの阻止が成功したかに思えるが、決してそうではない。エンジンが始動したとき、コロニーは既に阻止限界点であるGラインを越えた後であり、コロニーの地球落下は確定的な事実となっていた。問題は落ちるかどうかではなく、どこに落ちるかなのだ。レイが行ったのは、落着予定地点をダブリンから東に2500キロも離れた、地点にまでずらすという修正作業だったのである。
 大気圏突入する際の侵入角がほんの少しずれただけでも、地表に落下するときは多大な誤差を生むことになる。特にダブリンとピンポイントに狙いを定めた今回のケースなどは、そのちょっとした角度の違いでも、致命的な失敗に繋がるのである。
 レイは、ヴェキ・クリオネスことショール・ハーバインに肩を貸しながら、最初に入った宇宙港の方向へと戻っていた。コロニー落とし阻止の成否にかかわらず、レイは即座にこの場を離れねばならない。それは危険だからではなく、ティルヴィングの戦場離脱によって取り残されないようにするためだ。
 レイに片方の肩を担がれたショールは、腹部からの激しい出血のため、いつ意識を失ってもおかしくない状態で、ショール自身も現状を把握するだけの判断力を現時点では持っていなかった。そのおかげであるのか、ヴェキという人格を自覚しながらもレイ・ニッタという男のことをなぜか知っているような感覚に陥っていた。
「レイ・・・コロニー落下地点は?」
 かすれ声になりつつあったが、それをなんとか聞き取ることができたのには、レイは少し救われた想いだった。本当の名前がショール・ハーバインであるということを忘れてしまっているのに、自分の名前を覚えてくれているのだ。
「東に2500キロほどずらした。北海の真ん中だな。これでダブリン市街地への直撃は避けられるはずさ。」
「それではダメだ。もっと北にしないと・・・」
「どういうことだよ?」
「北海の真ん中にコロニーが落ちれば、ダブリンだけじゃなく、北海に接した各都市に大きな被害が及ぶ。」
 そのショールの言葉を理解して、レイは愕然とした。設定した進路のまま北海に落下すると、北海に面した海岸線の近くに点在する都市全てに津波が襲いかかり、その被害はダブリンを直撃したときよりも大きくなる可能性すらある。つまり、陸地に近すぎるのだ。
「クソ、なんて馬鹿なんだオレは!」
「今からでは再設定している時間はない。一旦外に出て、さっき点火した核パルスエンジンを破壊し、進路をダブリンに設定しなおすしかない。」
 ダブリンから離れさせるために行ったことが裏目に出て、結局はダブリンにコロニーを落とさねばならない・・・その不条理さを、レイは心の中で呪った。もはや手遅れなのだ。こうなった以上、あとはできるだけ地球への被害を小さくするようにするしかない。となれば、軌道を計算して最善のルートを探り出す時間が既にない以上、ダブリンに落とすしかなかった。
「仕方ねぇってのか・・・」
 早くエンジンを破壊しないと、今度はより多くの人々の生命が失われる。それだけは避けねばならないのだ。ふと横を見ると、ショールは自分の体重を支えきるのがやっとという感じで、ヘルメットの中には無重力で飛散した脂汗で一杯だった。
「おい、寝るのはまだ早いぜ!」
「・・・オレを、ディアスのコックピットまで連れていってくれ。ドックに停めてある。」
 レイは黙って頷いた。モビルスーツのコックピットになら、止血剤などが入ったサバイバルケースがあるはずであると気付いたのだ。
 ヴェキ、いや、ショールのシュツルムディアスの場所は、すぐにわかった。レイのマイン・ゴーシュとは壁一枚を挟んですぐ隣のドックに、直立していた。この場所だと、レイが最初のは言ってきたときには、死角になって見えない場所だった。
 すぐさまコックピットのハッチを開けて、ショールを押し込むと、シートの下からサバイバルケースを取りだした。中に栄養剤やその他の医薬品と拳銃が一丁あるのは、連邦もジオンも同じのようだった。
 余談になるが、以前、レイがナリアのリックディアスに収納されていたサバイバルケースを見て、消毒薬の代わりにブランデーの小瓶が入っていたのを発見したときは呆れたものだが、彼女は
「酒でも消毒はできるから、飲める分消毒薬よりも用途が多い」
 と開き直っていた。さすがにナリアでも消毒用アルコールを飲む気にはなれないのだろう、と見当違いな感慨さえ覚えたことがあった。
 止血剤と消毒薬と抗生物質のカプセルを取り出すと、すぐに応急処置を施して、ショールの容態の回復を確認せずに急いで自機に移動し、ショール機を担いでコロニーを出た。その目の前には、コロニー周辺の宙域から撤退しようとするシンドラと、クローネ機の姿があった。


 自らの根拠地であるサイド2を抑えられては、クローネも引き下がるしかなかった。やむなくシンドラに撤退命令を出したは良かったが、撤退するにあたってせねばならないことがあった。コロニーの進路変更の作業に向かわせたヴェキの回収である。
(ここでヘタにコロニーにちょっかいを出しては、サイド2も危ない・・・しかし、本当にダブリンの人々を見殺しにしても良いのだろうか?数の大小はあっても、人の命だ。そのようなことを数字で比較しても良いのだろうか?)
 しかし、このまま行動を起こせば、ダブリンとサイド2の両方を潰すことになる。結局は比較するしかないのだ。それは、クローネにとってまさに断腸の思いであった。
 そのクローネのシュツルムディアスはシンドラと並んでコロニーの宇宙港の前を通過していたが、そのとき、宇宙港の方から出て来る機影を捉えていた。最初はそれをヴェキ機だと思ったが、それは半分だけ正解だったようだ。言うまでもなく、残り半分のはずれの部分は、そのヴェキ機を抱えて宇宙空間を疾駆するレイのマイン・ゴーシュであった。
(クレイモア隊の人間と接触をしたのか、ヴェキ・・・)
 不安を隠しきれず、クローネは自機をマイン・ゴーシュへと近づけてゆく。もちろん、武器を構えずにだ。
「お前はクレイモア隊だな?」
 腕からワイヤーを伸ばして接触回線を開くと、単刀直入にレイに尋ねた。
「だからなんだっての。悪いけど急いでるのよ、オレ。」
「ヴェキはどうした、シュツルムにいないのか?」
「ヴェキ、ショールならシュツルムとやらに乗ってるぜ。怪我をしているがな・・・そうか、お前がショールをこんなにしたんだな?」
 こんな・・・とは、ショールが以前の記憶を失っていた状態である。重傷を負わせたのはレイ自身であったが、その事はとりあえず棚に上げておくことにした。
「ヤツを助けるためだ。そうしなければ、死んでいるところだった。」
 確かに、ショールのエウーゴのパイロットとしての最後の戦闘を目の当たりにした誰もが、ショールが死んだと思い込むのも無理はない状況だった。それゆえ、この正体不明の人物の言い分も、納得がいかないわけではないのだ。
「チッ・・・で、何の用だよ。さっきも言ったけど、急いでるんだよね。」
「ヴェキの記憶は今、極めて不安定なんだ。今はヴェキとして生きている彼に、ショールという別人物の記憶が入り込んで、その先にどうなるかはわからん。」
「元々はショールだった人間だ。いるべき場所にいるのが自然なんじゃないのか?とにかく、お前が何と言っても、オレはこいつを連れて帰るぜ。」
 レイの口調はいつになく真面目で、そして固い決意を感じさせるものだった。クローネにしても、レイの言ったことが正しいと思えるのだが、正しい認識が正しい結果を生むとは限らないのがこの世の常であるから、すぐにヴェキを返してやる気にはなれないのだ。
 しかし、時間がないのはクローネも同じだった。マシュマーの言ったとおりに、シンドラの撤退を確認がサイド2の安全に直結するとは到底思えなかった。ヘタをすると、シンドラが戻ってきた頃にはサイド2が全滅している可能性も否定できない。サイド2を守るために、クローネは急いで戻らねばならないのだ。
「・・・分かった、行け。ヴェキ、いやショールを頼む。」

 後退を始めたおかげで、ティルヴィングはクレイモア討伐本艦隊との相対距離を一定に保つことができ、少しでも時間を稼ぐことができるようになった。撤退戦術コード”フリッカー”の第一段階は、これであった。続いて出されたログナーの命令は、辛辣を極めた。
「後続の艦隊との接触予定時間は?」
「およそ20分後!」
 後退していなければ、既に後続の艦隊と交戦状態に入っていてもおかしくない時間だった。フリッカー発動までは本命の艦隊とは交戦しないこと、これがこの作戦の前提であった。
「よし、ミノフスキー粒子を戦闘レベルに散布、モビルスーツを全機発進、目の前のサラミス級2隻を生かして返すな。本艦は継続して後退を続ける。メカニックにコード・フリッカーの準備を急がせろ。」
 良識のあるタイプの軍人という印象を受けていたログナーらしからぬ命令だが、フリッカーの秘密を守るため、敢えてこのような方法を採らねばならなかった。目前のサラミスが食いついてきている以上、仕方がないのだ。
「ファクター大尉、目標は前方のサラミス級2隻。撤退のタイミングには注意して下さい。タイムリミットは今より10分です。」
「10分・・・ギリギリだな。了解だ、ミカちゃん。エストック隊1番機、出るぞ!」
 続いてエネス、マチス、アルツールと次々に射出され、4機のモビルスーツはティルヴィングの前に横一列に隊形を組んだ。
 そのとき、ティルヴィングに接近する機体の姿があった。ウェーブライダー形態のマイン・ゴーシュと、それにしがみつく格好になったショールのシュツルムディアスである。レイは核パルスエンジンを破壊してコロニーの進路を元に戻したあと、ショール機を背負ってネオジオン艦隊を再び突破してきたのである。
「ヘッ・・・ようやく追いついてきたか。失敗しても急いで戻ってこいっつったのによ。」
 ファクターだけでなく、ティルヴィングにいた人間達は、Gラインに到達したあとになってもコロニーの進路が変わらなかったことで、作戦が失敗に終わったことを知らされていた。よって、あとはサイド2へ人知れず撤退するだけである。そこまではレイにも知らされていたのだが、この状況からどの様に撤退するのかという、戦術コード”フリッカー”の詳細については何も知らない。かつてハヤサカに言われたとおり、そのときになるのを待っているしかなかった。
 しかし、ファクター達は、コロニーに向かったのがレイだけだったので、おまけを乗せて帰ってくるとは思っていなかった。その機体の色から、エネスにはその正体が自ずと判別できた。
「戻ってきたか、ショールを連れて・・・」
 言っている間に、レイの機体はエネスの『死装束』のすぐ前まで移動していた。
「レイ・・・」
「わりぃ、失敗しちまった。」
 いつものレイなら飄々と悪びれずに言うのだろうが、さすがに今度ばかりは沈痛さを隠せないでいた。苦渋の選択を迫られたものの、結果的にダブリンの人々を見殺しにしてしまった・・・それでいて平静でいられる方が異常と言うしかない。
「仕方のないことだ、我々にはこれだけしかできなかった。ダブリンの数十万の屍を背負って、生きて行くしかない。」
「このツケは、連邦の連中に払わせてやる!」
「・・・・・・それで、それに乗っているのはショールなんだな?」
「あぁ、怪我をしている。出血がひどいからメディカルルームに運ぶ必要はある。」
「分かった。貴様はショールを艦内に運び込んでから、オレ達と合流しろ。あのサラミス2隻を沈めて、こっちは撤退する。リミットは残り8分、急げ!」
「了解!」
 エネスの指示に従って、レイはティルヴィングのモビルスーツデッキに自機を滑り込ませた。コンテナの解体作業を終えたばかりのメカマン達は、今度は白いシュツルムディアスのコックピットからショールを引きずり出し、デッキ脇の処置室に運び込んだ。それを確認する間もなく、レイのマイン・ゴーシュはすぐに再発進した。

 処置室で止血などの応急処置を受けたショールは、ストレッチャーの上でベルトで固定されながらメディカルルームへと運び込まれていた。それを受け取ったカンダは、エリナの寝ている隣のスペースに差し入れた。その光景を見たイーリスは、今までにないほどの驚愕を持って迎えていた。
「この人は・・・!」
 ショール・ハーバイン戦死の報を受けたとき以来、彼女はショールに関する情報を何も教えてもらえなかった。それはエネスが意図的に隠したからであるが、理由がなかったわけではない。一度戦場で相対したときでも、エネスは相手をショールだと断言できる材料は少なかったのだ。
「血が少し足りない、造血剤を打っておいた。少ししたら意識が戻るはずだ。」
 意識がほとんど無かったため、麻酔を使用せずに処置をしたようで、時折ショールの顔は苦痛に歪む。しかし、イーリスにはそれを痛ましく思う時間は与えられず、カンダに指示されて薬品などを用意していた。
 それから5分と経たないうちに、ショールはおぼろげながらも意識を取り戻した。
「ここは・・・それに、君は?」
「ショールさん、ここはティルヴィングの中よ。」
 イーリスの声は、ショールの帰還に対する歓喜と驚愕という複雑さに震えていた。生きてここに帰ってきてくれたことが、未だに信じられない。
「オレは、どのくらい眠っていた?」
 腹部の痛みはそうそう消えるモノではなく、顔が苦痛に歪んでいた。
「ほんの数分よ・・・でも、まだ起きちゃダメよ。」
「そうも行かない。シンドラに戻らねば・・・」
 ショールの記憶は、このとき混濁していた。見覚えのある顔と見覚えのある風景が、ヴェキとしての自分の中には無いモノだったからだ。ひょっとすると、自分はヴェキではないのかも知れない。しかし、自分はヴェキだ・・・。脳神経がオーバーフローを起こして爆発しそうな錯覚を覚えたが、すぐに現実へと引き戻された。
「出なければ・・・」
 言葉の意味するところを理解したわけではないが、この男が無茶をするのだということを女の感が告げていた。その証拠に、ストレッチャーから立ち上がろうとしている。
「やめて!」
 手を添えようとしたが間に合わず、ショールはそのまま前のめりに倒れ、拍子に隣のスペースとを仕切っている薄いカーテンが低い音と共に裂けた。その向こうには、金髪の美しい女性がベッドから起きあがっている状態で、ただ何をするのでもなく座っていた。
「無茶しないで・・・」
 無言でそれを払いのけたショールは、目の前の光景にただ見入っていた。その瞬間、頭の中をよぎったのは、ヴェキではなく別の人物の記憶の中にいるエリナ・ヴェラエフだった。

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