第40章 想いが戦争を超えたとき

 エリナとの長いキスの中で、ショールは自分の中にあるショール・ハーバインとしての記憶の断片の存在を、確かに感じていた。
「オレは・・・」
 なぜこのようなことをしたのか、自分でも分からなかった。シンドラにいたときはこんな事にはならなかったはずだ。レイに撃たれて意識を失いかけたあのときから、ショール自身の意識のさらに奥深くにある部分で、今までぼんやりしていた記憶がハッキリと見えてきたように思えるのだった。
「・・・・・・」
 唇を離したあとでも、エリナはいっこうに言葉を発しようとはしなかった。ただ、ショールの首を抱きしめているだけだ。しかし、それでも混迷状態というエリナのことを考えれば、十分すぎる変化だったと言える。
「オレはヴェキだけど、ショールでもあった・・・それはオレにも分かる。」
「・・・・・・」
 目を閉じていたエリナは、目を開けて優しく微笑んだ。それは、混乱をきたし始めていたショールの中の何かに強烈に訴えかけるモノがあった。次第に彼の中で士官学校時代のビジョンがフラッシュ・バックし始めた。刷り込まれた記憶では彼と同じ時を過ごした女性は別の女性だったのだが、今見えるビジョンに映る女性は目の前の顔と同一になっていた。記憶の糸がほつれた状態から、少しずつほどけてきているのだ。その反動か、頭痛が断続的に起こり始めていた。
『また伸びたわね・・・』
『何がだ?』
『髪よ、私より長いんじゃないの?』
(そうだ、あのとき・・・)
『母親みたいな事を言う・・・』
『もうじきそうなるかもね。』
(そして、オレがこの後・・・)
 数分間の沈黙を経て、ショールは激しく襲いかかる頭痛を乗り越えて、ようやく口を開いた。
「エリナ・・・」
「あ・・・」
 これ以上は何も言えなかった。ヴェキとしてでなく、ショールとしてのいつもの不敵な余裕のある笑顔を目の当たりにしたからだ。ショールが自分を取り戻したという確証は、この時点で生まれたのである。
「あ・・・」
「エリナ、オレだ。分かるか?ショール・ハーバインだ。」
 しかし、エリナは優しく微笑むだけで、何も言わない。
(おかしい・・・エリナはオレのことを分かっているはずなのに、なぜ何も・・・?)
 しばし無言で見つめていくうちに、エリナは何も言わないのではなく、何も言えないのではないかと思えてきた。彼女の微笑みは、ショールの発言を肯定したしるしなのではないのだろうか?
「・・・何も言わなくていい。分かったのなら、もう一度笑顔を向けてくれ。」
 ショールの推測はこの瞬間、事実となった。混迷状態こそ脱したが、エリナは失語症にも似た状態に陥っていたのだ。
「イーリス・・・そうだ、イーリスはいるか?」
 たまりかねて大声で呼ぶと、ドアのすぐ外にいたイーリスが中に入ってきた。自分の名を呼んだと言うことは、ショールが自分を取り戻したことの証明であったと、彼女は察していた。
「ショールさん、私が分かるのね?」
「・・・まだよくは分からないさ。なんせオレは、自分がショールと呼ばれたときもあったくらいにしか思ってない。ヴェキとしての記憶も鮮明に残ってる。でも、お前達の名前も、そしてどんなヤツだったのかも分かる。オレにとって、みんながどれだけ大切だったのかも・・・な。」
「よかった、本当に・・・。」
「エリナを診てくれ。様子がおかしい。喋れないようなんだ。」
 イーリスは、混迷状態に陥ることの原因をカンダから聞いたことがあった。エネスにも説明したとおり、急激な精神的ショックだ。そして精神的なダメージはそのまま脳のダメージになる。それ以後は推測でしかないが、その脳のダメージが言語中枢にまで及んでしまったのではないか。
 しかし、イーリスは兄と違って、冷静を保ってはいられなかった。
(せっかくお互いに自分を取り戻したのに、最後の最後でこんな落とし穴があったなんて・・・)
 と、内心で焦っていた。
「と、とにかく、エリナさんに無理はさせないで。そしてショールさんも。あなたの怪我は重傷なのよ。」
「・・・分かった。」
 しかし言葉とは裏腹に、ショールの心境は、奥底から沸き上がる妙な予感に満たされつつあった。

 コード・フリッカーは、既に第三段階を迎えていた。ハヤサカの手によって製作された精巧なティルヴィングのダミーと500個に及ぶ宇宙機雷の群れを迂回したエネス達モビルスーツ隊は、それらの前に躍り出て、クレイモア討伐艦隊から出撃したモビルスーツ隊の迎撃に専念していた。
 5分間に及ぶ戦闘で、クレイモア隊は12機のジムIIIによる攻撃から自分の身を守るので精一杯だった。そもそも2倍以上の数の敵と真正面からぶつかって、まともな勝負になるはずがないのだ。前回の戦闘でそれを実践できたのは、ティルヴィングの火力とクレイモア隊の連携をもってこそだ。さらにこのときになって、状況に変化が訪れた。それも、エネス達にとって良くない方向にである。
「やべぇかな、まだ増援が来る!」
 ゼータプラスCA2型”マイン・ゴーシュ”のレイが、その存在にいち早く気付いていた。無論、彼らはその増援の正体がニューデリー隊であることを知らない。その少し後に、ファクターらもその存在を察知していた。すぐさまファクター機から、信号弾が打ち上げられた。これは当初に打ち合わせた中にあったことで、色によって戦術を指示するモノである。普段は短いコードで通信を送るが、今回はミノフスキー粒子を戦闘時よりもさらに高いレベルで散布しているので、その短いコードすらも通信で伝えることはできないのだ。
「白い信号弾・・・第三段階のフィナーレに移るか。」
(最後の第四段階にまで持ち込めるかどうかは、微妙なところだな・・・)
 エネスが呟いたとおり、その信号弾の意味するところは”作戦の予定通りの進行”である。ファクターが合図の射撃を行い、その直後に急速後退、敵を機雷群に誘い込むのだ。エネスにも、現状を何とかするにはそれしかないと思えた。時間の経過とエネス達の生存率は反比例している。
「頼むぜ、テメーら。」
 ファクターのビームピストルがその真上になされ、それを合図にティルヴィング麾下のモビルスーツ全機が後退を始めた。
 その頃、機雷群の後方から迫っていたのが、精巧にリックディアスを模して作られたダミー数体であった。距離的にはティルヴィングのダミーも含めて、敵モビルスーツ隊の目視可能範囲の中にあったが、クレイモア隊討伐艦隊の誰ひとりとして、それをダミーだと察知した人間はいなかった。実際のところ、ストラスブールとシルケボリの指揮官らも、圧倒的な戦力差を前に自暴自棄になって特攻してきたモノだと思っていた。それこそがエネスの思惑通りであった。


 エリナを見守っていたショールは、このときになって、そこはかとない不安の存在を意識の中に感じていた。それはエリナとは直接関係のないことであって、どちらかと言えば数々の死線をくぐり抜けてきたエースパイロットとしての勘・・・決して迷信的な何かではなく、曖昧だが確実なモノであった。次第にそれを抑えきれなくなり、顔から血の気が引いていき、右手でそれとなく髪を掻きむしった。
「どうしたの?」
 ショール自身の異変と感じ取ったイーリスが、心配そうに声をかけた。彼女はまだ医者の卵でしかないから、それしかできな事をもどかしく感じている。
「ダメだ、今のままでは・・・!」
 言うが早いか、イーリスの制止を振り切ってメディカルルームを出ようとしていたが、ふと立ち止まって振り返った。
「・・・?」
「エリナ、ちょっと行ってくる・・・すぐに帰ってくるからな。」
 いつものショールらしからぬ発言だった。彼がこのようなことを出撃前に言うのを見たことがない。しかし彼の目は、いつものショールが戦闘を前にするときのそれだった。口元だけを微笑むように微妙に歪ませながらも目つきだけは真剣の、そんな目だ。この顔をしたときのショールを止められる人間はいないのを知っていたが、言わずにはいられなかった。今回ばかりは嫌な予感がする・・・いわゆる女の感という奴である。
「必ず帰ってきて・・・エリナさんとあなたの子供のために・・・。」
「・・・・・・!!」
 表情が一瞬だけ強ばったのを、イーリスは見逃さなかった。彼をつなぎ止めておくためには、もはやこのフレーズしかないと思っていただけに、効果の程が伺い知れたのだ。しかし、ショールのリアクションは、その期待をそっくり裏切った。むしろ吹っ切れたような表情になったのである。
「イーリス、エリナを頼む。」
 その言葉に対するリアクションを見出せず絶句したイーリスは、ショールがそのままメディカルルームを出ていくのを引き留めることは出来なかった。それどころか、かえって行かせてしまうことになるなど思わなかったのだ。その直後、奥の部屋からカンダがいくつかのアンプルを持って現れた。
「ショールはどうした?」
「今、行ってしまいました・・・。」
「・・・そうか。」
 そのときカンダの表情が哀しげに映ったのを見て、イーリスは首を傾げた。この医者も自分と同じ考えなのだろうか、それとも他に何かあるのだろうか。その困惑を察しているであろうカンダの表情は再び変わり、何か言いにくそうなモノになっていた。
「・・・・・・?」
「いや、君だけは知っておいた方が良いかも知れないな。」
「何か変なことでも?・・・教えて下さい、覚悟は出来ています。」
「検査の結果、血液中からいくつかの薬物反応が出た。」
「薬物?」
「強化人間に処置をするときに使用されるモノもいくつかあったけど、それらは微量なので問題はない。ただ・・・」
「ただ?」
「モルヒネ系薬物が多量に投与された形跡があるんだ。モルヒネには苦痛を和らげる作用があるのは知っているな?」
「ええ、脳内麻薬にモルヒネが・・・」
 イーリスは医者の卵だから、その程度は知っていた。薬物に関する知識はそれなりにあると、学生時代は自負していたモノだ。
「そう・・・検出された薬物は、その他に強心作用が付け加えられている種類だ。しかも、明らかに外部から大量の投与されたとしか思えないような量をな。つまり、重度の麻薬中毒患者と同じ様な状態なんだ。」
「それで?」
「定期的に薬物の投与を受けても、少しずつ身体を蝕んでいく。ショールはもう、どのみち長くはない・・・。」
 このときになって初めて、イーリスは、ショールは死に場所を自分で選んだのだと察していた。白いシュツルムディアスは、文字通り彼の『死装束』となるのだろう。しかし、これだけでは終わらなかった。それを聞いていた人物が、他にひとりいたのである。
「長くない・・・どういうこと?」
「え、エリナさん・・・!」
 エリナは混濁した意識の中から目覚めていたが、数ヶ月もの間ベッドにいたせいで自力ではまともに立ち上がるだけの筋力を持ち合わせておらず、ただベッドの上で驚愕の表情を浮かべているだけだった。

 それから数分も経たないうちに、ティルヴィングのブリッジは状況の異変に直面した。
「艦長、鹵獲したシュツルムディアスがカタパルトデッキに!」
 ミカは、ブリッジの両側面に位置するカタパルトデッキのうち右側に白い機体が出現したのを見て、悲鳴に近い口調で報告をした。彼女、いや、一部を除いたクレイモア隊のクルーは、この白いシュツルムディアスに記録上戦死したはずのショールが乗っていることなど知らなかった。ミカが不可思議に思ったのは、全てのパイロットが出払った現状で、誰が出撃したのかが分からないからだ。
「ショール、やめたまえ!」
 ブリッジで唯一、全てを知っていたログナーが、かつてないほどの音量で叫んだ。その名前を聞いて、他のクルー達は耳を疑い、互いに視線を右往左往させる。”まさかこんな所でその名を聞くことになるとは”という表情だ。
 スクリーンに表示されたショールは、パイロットスーツも着用していない状態で、処置後に着替えさせられたエウーゴ時代の制服のままだった。腹部の傷が開いているらしく、激しく出血しているのがすぐにわかった。
「増援が来ている、今のままでは逃げることは出来ない。」
 その存在は、既にティルヴィングでも確認していたが、それがニューデリー隊であることまでは分かっていない。コード・フリッカーのため、ティルヴィングの周辺にはミノフスキー粒子が高濃度で散布されているので、こちらが識別信号を受信することが出来ないでいるのだ。それに、艦形を照合するには距離が遠すぎたこともあった。
 そのとき、ブリッジに姿を現した人物がいた。ドアの音に振り返ったログナーは、その姿を見て表情を一変させた。
「エリナ・ヴェラエフ・・・戻ったのか。」
「艦長、ショールを行かせないで、お願いだから・・・」
「そこにいるのはエリナか・・・ようやくお目覚めだな。」
 この時点で、ショールとエリナの2人は互いに自分を取り戻し、本当の意味での再会を果たした・・・少なくともイーリスにはそう思えた。
「死ぬときは私の胸の中って約束はどうするのよ。ちゃんと生きて帰ってきなさい。」
「エリナ・・・わかった。必ず帰ってくる、オレを信じろ。」
「いいわ、行ってきなさい。」
 2人がかわした言葉はこれだけだった。それをイーリスは、少し意外に思った。愛は言葉だけで語ることはできない、というような気がした。この2人の間には積み重ねられた時間と、互いの性格を受け入れることで生まれる上辺だけでない何かを感じるのだ。
「ショール・ハーバイン、『死装束』出るぞ!」
 ログナーの返事を待たず、ショールは自分の機体を発進させた。先程スクリーンに映し出されたショールの姿は、その場にいる全ての人間に、彼の最後の出撃だと予感させる何かがあった。

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