第30章 閉ざされた心

 私達が在籍していたニューオリンズ士官学校の壁は、真新しさを象徴するが如く、綺麗な白だった。校舎の前には広々としたグラウンドがあり、その中では士官候補生となるべく教練に励んでいる、もしくは四苦八苦している将来のエリート達が汗だくになって走っていた。彼らにとってはカリキュラムの消化が全てであって、卒業後の配属先や自分の未来に想いを馳せる暇も見出せないのが普通だった。
 卒業を1年後に控えた私もまた、その例外ではない。私が彼らと一緒に走っていないのは、私が整備兵科に在籍している生徒だからだ。私達整備兵科の生徒は、ちょうど彼らより1時限分の教練が少ない。今はとりあえずの、自由な時間だ。
 そんなグラウンドの脇の芝生の上に地球の重力に身を任せて座っていた私のとなりで、卒業を間近に控えたショール・ハーバインがいつもの不敵な余裕の微笑をたたえながら、立ってそれを眺めていた。
「どうしたの・・・?」
 私はショールに、そう尋ねた。ショールの表情はいつものモノだったので、私は別にそれを珍しいとは思わない。ただ、私達に昼間の明るい日光を供給し続けてきた太陽が、いつの間にか変色して夕焼けを映し出しているのを黙って眺めているのは、時間が勿体ないと思えたからだ。私は何か話題が欲しかったから、とりあえず言ってみただけだ。
 ショール・ハーバイン・・・私の19年の人生で、たった一度だけ愛した男性の名前だ。彼は新設間もないニューオリンズ士官学校の第1期卒業生の中でナンバー2の席次で卒業する予定の秀才だが、私は別に、彼が将来のエリートだから愛しているわけではない。むしろ、それ以外の人間的な部分の全てを愛していた。
「いや、”きのうの我が身”だなと思って・・・」
「まるで他人事ね・・・」
 自分は卒業間近なので、彼に課せられる教練のノルマはなく、いい気なモノだ。ショールよりも入学が1年遅れた私は、当然ながら彼が卒業してから更に1年を、この士官学校で過ごさねばならない。
 ショールと首席のエネス・リィプスは、終戦後の混乱も手伝って、未だ配属先が決まっていなかった。軍備の増強を急ぎたがっている連邦軍の各署では、どこも人材が欲しいのが現状だ。希なことではあったが、終戦後の連邦軍では、士官学校でトップクラスの成績を残した逸材を複数の部署で取り合うらしい。
「他人事さ。お前も早く卒業して、オレの側に来てくれよ。」
 ショールがこんなに気楽な1日を過ごせるのは、その恩恵と言えた。私にしても、ショールと過ごす時間がとれたので、文句はない。
「分かってるわ。あなたについて行くって決めたもの・・・」
 私はそう言って、上目遣いにショールを見た。春の到来とともに芝生の匂いを運んでくるそよ風は、そんなショールの長い髪を揺らしていた。
「また伸びたわね・・・」
「何がだ?」
「髪よ、私より長いんじゃないの?」
「ン・・・よく、”ふたり揃って同じ髪型なんて、そこまで来たら嫌味なペアルックだ”って言われたよな。」
 ショールは笑っていた。
「エネスが言い出したのよね、それ。」
 私もまた、同じように笑った。私とショールは、いつまでこうして一緒に笑っていられるのだろうか・・・考えても仕方のないことだったが、それができるだけ長いことを祈った。
 風は既に、春風といっていい穏やかな暖かみのある風だった。気持ちよくなって、私は芝生に寝ころんでいた。このままだとまどろみに負けてしまいそうだったが、今は負けても良いと思った。
「・・・リナ、エリナ!」
 遙か後ろで、誰かが私の名前を呼んでいる・・・この声は、エネス・・・ショール・ハーバインの親友であり、また私の親友でもある、士官学校首席卒業生になる予定の男だ。ショールとエネスは在籍中に知り合い、いつも一緒に行動するようになっていた。その後で、私が加わったのだ。
 しかし、私の意識は睡魔に勝てず、そのまま芝生の上でまどろみに消えた。ずっとこの時の夢を見ていたい・・・そんな気がしていた。

「エリナ、エリナ!」
 シンドラから射出されたカプセルに収容されていたのは、エリナ・ヴェラエフだった。それは旧知の仲であるエネスがティルヴィング帰還後に確認したことだから間違いはないが、そのエネスでも今のエリナに以前のような快活さというか、生命そのものの活力を感じることはできず、繰り返して名を呼ぶことしかできなかった。
 エネスの呼びかけに反応を示すことこそなかったが、確かにエリナの目はかすかに開いていたし、呼吸も正常に行われているようだった。そこはかとない危機感を感じたエネスはメカマンを数人呼びつけ、ストレッチャーを用意させて医務室に運んだ。
 1時間に及ぶ精密検査を終えて、メディカルルームの前でそれを待っていたエネスは、軍医であるシュウゴ・カンダに中に入るよう勧められた。
「どうも、良くないな・・・」
 エネスが着席したのを確認して、カンダは切り出した。エネスは緊張の面持ちを崩さず、続きを顔で促した。
「代謝機能も正常だし、各器官にも異常はない。」
「それのどこが良くないんだ?」
「精神医学は私の専門外だからあまり詳しくは言えないが、昏迷(こんめい)状態になっている。」
「昏迷状態・・・?」
 その言葉は医学用語なので、その知識のないエネスは当然、聞いたことのない単語だった。しかし、先程のエリナを見ている限りでは、漠然とその言葉の意味が分かったような気がしていた。
「身体機能はともかく、精神的な活動が一切なくなるという状態のことだ。この状態は、食事やその他の日常の生活活動に支障をきたす恐れがある。看護体勢が必要だろうな・・・」
「治る見込みはあるのか?」
 エネスは、一番知りたいことを尋ねた。
「・・・それは判らない。治るかも知れないし、治らないかも知れない。」
「原因は?」
「一番多いケースは、精神的なショックだな。精神的ショックは、脳への物理的ダメージにもなるんだ。」
「・・・・・・」
 エネスが無言になったのは、軍医の話を聞くことに集中しているからではなかった。今のエネスの頭の中で、何故こういうことになってしまったのかという悲鳴にも似た苦悩がふつふつと沸き上がっていたのである。
「例えば、自分のもっとも信頼している人物に裏切られたとか、最愛の人を失ったとか・・・」
「もういい!」
 その言葉は極めつけだった。軍医は艦の外の事情を知っているはずもないので、その言葉はあくまでも例示でしかない。それはエネスにも分かっている。だが、エネスは自分の感情を抑えることはできなかった。


 宇宙世紀0088年5月4日が終わろうとしていたその時、レイは眠りにつけそうもなく、士官用ビュッフェの自動販売機でコーヒーの入ったチューブを購入して、ひとり、無重力用の固定イスに腰をかけていた。
 24時間体制でクルー達が動いている艦内では、昼夜関係なくビュッフェに人の出入りがあったが、レイの座っているテーブル席についているのはレイだけであった。
「こんなに眠れなかったのは、1ヶ月ぶりかな・・・やだねぇ・・・」
 たった2ヶ月の間で、レイの周囲の環境は大きく変わっていた。無論、それはレイの責任ではない。レイにとっては、それこそが気に入らなかった。自分が悪かったのだと納得することもできないのは、気持ち悪いことこの上なかったのだ。
 エネスからエリナのことを聞かされたとき、そんな周囲の変化に対する自分の無力さを呪わずにはいられなかった。そのエリナが戻ってきたと聞いたとき、最初は月での一件以来から感じていた悔恨を忘れられるかも知れないと胸を撫で下ろした。その直後、エリナの心が閉ざされてしまっていたと聞いてから、そのレイの心から晴れやかさが失われたのだ。
 しかし、レイの心のチャンネルの切り替えのスピードは、まさに特技と言っていいほどに速かった。これはナリアが戦死したときも同様で、いつまでも悔やんでいても仕方がない、迷っていても仕方がないというレイの性格は、この時に有効に作用しているのだった。
「でも、どうしてシンドラはエリナを返してくれる気になったんだ・・・?」
 レイの疑問に応えてくれる人間は、今のこの場にはいない。だが、口に出して呟かずにはいられないほど、この疑問は強かった。エリナが自分の殻に閉じこもったことで捕虜として扱う価値も見出せなくなった、と最初は考えたが、もしそうなら殺している方が自然である。もしその理由がヴェキにあったことだと知れば、レイは容易には信じられなかっただろう。

 ちょうどそのとき、エリナの看護を他の看護婦に任せて交代してきたイーリスが、ビュッフェのすぐ前を通りかかっていた。イーリスもまた自分の感情と思考を制御しきれないでいたので気分転換をしたかったのだが、そうするための踏ん切りすら明確につけなかったというのが今の彼女の心理状態であった。つまり、何から考えて良いのかも分からないほどに混乱していたのである。
 数十秒もの長い時間をビュッフェに入るかどうかを悩むのに浪費していたが、その中にレイの姿を見つけると、結局入ることにした。
「レイさん?」
 少し控えめだと自分でも思えるほどに、小さな声で呼びかけた。レイも自分と同じく混乱していたらしく、そのイーリスの声に気付く気配はなかった。三度目の呼びかけで、レイはようやくイーリスの存在に気付いて振り返っていた。
「あぁ、お疲れさん。エリナの看護をしてたんだってな・・・エネスから聞いたよ。」
「エリナさんが帰ってきて丸一日・・・生命の危険は全くないけど、話をすることもできない・・・エリナさんが可哀相よ・・・」
 レイも同感だった。今のエリナは生きているのではなく、死んではいない状態なのだ。本人もさることながら、エリナを昔から知っているエネスやイーリスにしたらやりきれないだろう。
 こういうとき、ナリアであれば酒瓶の束を持ってきてくれたのに、レイはそう思わずにはいられなかった。酒の本当の使い道というのを、ナリアは自分に教えてくれたのだなと今更になって思えていた。
 そこになって、イーリスが飲み物や食べ物を何も持っていないのに気付いて、自動販売機から自分と同じコーヒーを購入し、イーリスに手渡していた。
「でも、復活してくれるって信じるしかないね。オレ達にできることなんて、祈ることくらいだろ?」
「それは分かってるけど・・・」
「オレやエネスにはそれしかできないけど、看護をしてやってくれよ・・・絶対治るからさ。」
「・・・そうね、ありがとう。私にできることといえば、それくらいだものね・・・」
 レイが自分と似たような心境であることを知って少し気が楽になったのか、イーリスはレイから手渡されたチューブに入ったコーヒーに、初めて口を付けた。
「ショールもナリアさんもエリナも・・・もう今まで通りになれないのは寂しくて辛いけど、ま、前向いて頑張ろうや。」
「ええ・・・」
「それじゃ、やっと酒なしでも眠れそうなんで、寝るわ・・・じゃぁな。」
「おやすみなさい。」
 イーリスは一言だけ返して、ビュッフェを辞するレイを見送りもせずに考えていた。我ながら、らしくないと思う。いつもなら、自分は迷うことを優柔不断と評してこういうことに陥らないはずだった。少なくとも、ハイスクール時代ではそうだった。
(ナリアさんは帰ってこなかったけど、エリナさんは帰ってきた・・・あと、ショールさんは・・・またみんなで笑える日が来るんだろうか?)
 レイの言うとおり、それを信じるしかなさそうだった。

 サイド4暗礁宙域での遭遇戦を脱したシンドラは、当初の予定を変更して、サイド4から静止衛星軌道に乗らずにサイド2への最短ルート、すなわちサイド2へのショートカットコースに進路を取っていた。
 遭遇したのがティルヴィングであったという偶然はこの際、ヴェキ達にとって予想外の幸運であったと言える。予定通りであれば、エリナ放出のために一度静止衛星軌道に乗らなければならなかった分、時間と推進剤を余分に消費せねばならなかった。そして、ティルヴィングとの遭遇があったのだ。おかげでシンドラは予定よりも早く、サイド2に帰還することができた。5月6日のことである。
「よく無事に帰ってきてくれた。」
 サイド2の1バンチコロニー宇宙港でシンドラから降りたばかりのヴェキを出迎えたのは、本来の指揮官であるクローネだった。
「なに、オレにも色々為になったさ。そっちもそっち、代わり映えしない職場でご苦労様。」
「いや、そうでもなかったぞ。来客があってな、おかげで一時的にでも実務から開放されたが、また問題が出てきてな・・・それで、お前が帰ってくるのを今か今かと待っていたんだ。」
 クローネを訪ねていたグレミー・トトは既にアクシズへの帰途についており、あとはシンドラ帰還まで実務に精励していれば良かったのかといえば、そうではなかった。その理由は、直後にクローネの口から伝えられた。
「実はな、ハマーンから地球への同行を誘ってきたんだ。」
「それは・・・お前の部屋で聞こう。ここでできる話じゃなさそうだ。」
「了解だ。」
 宇宙港のブロックからコロニーの中枢部に入ってそれほど距離のないところに、クローネの私室があった。クローネはヴェキを伴って、その部屋に入っていった。
「で、どういうことなんだ?」
 入室してすぐ、ヴェキは単刀直入に尋ねた。
「まだ正式に日時が決まったわけじゃないけど、半年もしないうちにハマーンが地球に降りるんだそうだ。」
 その位では、ヴェキは驚かなかった。もともとヴェキがシンドラで地球に降りたのは、その時の下準備をするためだったからだ。
「それは分かってる。それとお前がハマーンに同行することと、どう関係あるんだ?」
「強制ではないから、拒否をすることができるけどな。もしハマーンに同行すれば、地球の俗物共に紹介してくれるそうだ。」
 クローネの発言の後半は、明らかに何かを嘲笑していた。その意味が、ヴェキには漠然とだが分かった。ハマーンが地球に降りる理由は、地球連邦との和平交渉ではない。それはあくまでも表面的なモノだ。真の目的は連邦への恫喝だが、それだけでなく、これまで宇宙をないがしろにしてきた連邦の閣僚達が今度はネオジオンに媚びへつらうという、立場の逆転を嘲笑するのも目的なのではないか、とすらクローネは思ったが、それはハマーンへの悪い意味での先入観が思わせることだろう。
「ははは、そりゃいい。地球連邦の閣僚を直接見るというのも、良い経験かも知れないぞ?」
 ヴェキはまるで他人事のように笑っていたが、言っている内容は冗談ではない。実際、クローネも一度はそうしたいと思っていたので、悪い話ではないと思っていた。
「確かにな・・・でも正直言って、オレは迷っている。」
 クローネが迷っていた理由をヴェキは推察できなかった。実は、クローネはグレミーが軽挙するのではないかという危惧を覚えていたのだ。
「何を迷う?お前はハマーンと地球に降りて、サイド2の留守はオレが預かっても良いんだ。それとも、他に心配事でもあるのか?」
「そうなんだ、だから迷っている。」
「それなら話は早い。ハマーンの申し出を拒否すればいい。アクシズやサイド2の守りが薄くなるという方便を使う必要はないだろう?本当のことなんだから。」
「しかし、それが分かっていて、なんでハマーンがオレを誘ったのか・・・」
 クローネの疑問はもっともだと、ヴェキには思えた。ハマーンはもともと、クローネにそこまでしてやるようなほどに信頼を寄せてはいないはずだ。
「サイド2で勝手なことをするのを恐れているのか、それともオレを試しているのか・・・・」
「手薄になったアクシズを、誰かが狙うとでも?・・・それはあり得るな・・・ま、でもオレの回答は変わらない。クローネ、やはり拒否すべきだ。サイド2に残留していれば、情勢が変化しても大概は対処できるはずだ。」
「・・・あの女に試されるのは癪に障るしな。そうしよう。」
 クローネの腹が決まったのを見て、ヴェキは安心をした。
「しかし・・・いちいち気に入らないな・・・」
「ン・・・?」
 ヴェキが何かを言いたそうにしていたので、クローネは考えるのをやめて、ヴェキに刮目した。
「いや、あの女のことだよ。アイツは、自分がヒト以上になったとでも思っているんだろうか?」
「もしそうだとしたら、ヤツに未来はないな。ヒトはヒト以上にはなれない。ヒト以外になることはできるけどな。」
「ヒト以外、か・・・」
 クローネはヴェキの鸚鵡(おうむ)返しな応答を聞かず、ヴェキの言う”気に入らない”という意見に意識を集中していた。
「既に、遅いかも知れないがな。」
 ヴェキには、クローネの言っていることが分からなかった。
 
 様々な思惑を孕みつつ、のちに”第一次ネオジオン抗争”と呼ばれる闘いは、新たな展開を見せ始めていた。発芽した悲劇の芽がそろそろ根を張り始めていることに、誰も気付いてはいなかった。

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